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THE WANDERLAND for Dogs, Cats and Us
2011年3月11日に起きた東日本大震災から3年、復興に向けて進む一方で解決すべき課題も多く残っています。福島県に住み、動物の保護活動などを行っているライターの滝野沢優子さんに、震災が起きたころの話、動物を取り巻く環境などについて寄稿していただきました。
文・写真/滝野沢 優子
何もかもが必死だった震災直後の福島。そのときペットを取り巻く環境は?
我が家は福島県中通りの某村にある。農家でもなく、田舎暮らしでもなく、村の人口確保のために造られた住宅団地だ。
東日本大震災の当日、震度6強の地震に襲われた。長い横揺れが終わってから外に出てみると、庭や道路には亀裂が入り、側溝は落ち、家は傾いていた(後に大規模半壊の認定を受けた)。
被災地に残されたペットは?
震災から1カ月近く経ち、だんだんと以前の生活に戻っていった。それまでは自分のことだけで精一杯だったが、気持ちに余裕ができてくると、動物たちのことがどうにも気になって仕方がない。
ネットで検索してみると、県外の動物愛護団体が果敢にも原発近くまで入ってレスキューしているのがわかった。福島県民が放射能を恐れてどんどん県外へ避難していく一方で、福島からはるか遠く離れた場所から被爆を恐れずに動物を助けるために頑張ってくれる人たちがいる! 本当にありがたいと思った。
私も動物のためになにかしなくては。
震災前までは動物保護活動には興味はあったものの、気ままな旅ができなくなることからペットは飼っていないし、保護活動にも意識的にかかわるのを避けていた。でも、ここで福島の動物たちの惨状を見なかったふり、知らなかったことにして何も行動しなかったら、私は絶対に後悔する。一生、そのことを負い目に感じて暮らしていくことになるだろう。
4月初旬、意を決して団体に連絡を取り、私のペットレスキュー活動が始まった。
当初は福島県内に造られた急場ごしらえのシェルターでレスキューされてきた犬猫の世話、支援物資の仕分けなどに追われた。まだボランティアもわずかで、とにかく現場はバタバタしていた。
団体のスタッフは避難住民からの依頼をもとに被災地の住民宅へ赴き、依頼の犬猫を探し出し、ついでに保護できる限りの犬猫を連れ帰ってきていた。そのころはまだ警戒区域が指定されていなかったので、法的には誰でも原発20㎞圏内への立ち入りが可能だった。
避難住民が自分で行くこともできたのだが、一次避難所では放射能被害がひどいので自宅に戻れない、と説明されていたそうだ。マイカーを置いて役場が用意したバスで避難した人は交通手段もなかった。このときに飼い主が一時的に戻れていたら、かなりのペットは助かっていたと思う。
当初、数日で帰れると思い込んで避難した人たちは、自宅に残したペットにそれだけの分のフードしか置いてこなかった。室内飼いの犬猫は鍵のかかった家の中に閉じ込められたまま。それっきり人間が戻ってこなかったのだから、彼らの悲惨な末路は想像してもらえるだろう。
外につながれていた犬の中には自衛隊員や警察が黙って鎖を外してくれたり、食べ物を与えてくれたりしてとりあえず生き延びたものもいた。放浪しているうちに圏外へ出たりレスキューされて飼い主と再会できた犬も少なからずいる。
家畜は…、壮絶だった。
2011年4月22日。20㎞圏内が警戒区域に。そして誰も入れなくなった
4月22日午前0時。福島第一原発20㎞圏内が警戒区域に指定され、許可のない一般車両は立ち入りできなくなった。
それまでは誰でも入れたので、私も何度かレスキューに参加した。このころは、首輪のついた犬があちこちで放浪していて、衰弱した犬や人懐こい犬はすぐに捕まった。
警戒区域が指定される前日の21日は多くの愛護団体や個人活動家が圏内に入って、1匹でも多くの動物を救い出そうとギリギリまで活動した。車に積める限りの犬を連れ帰り、最後は持って行ったすべてのフードをあちこちに置いて、「なんとか生き延びてくれ」と願いながら警戒区域をあとにするほかなかった。